昭和54年12月15日 朝の御理解
(教典の白紙の部分を頂かれる)
(途中から)白紙でしょう。今日は皆さん白紙でお話を聞いて頂きたいと。もう信心にはだいたいそれは大切なんです。あれはあぁじゃないこれはこうではないと。自分の知っておる程度の事を、そのまま自分の観念にしてしまっておる場合がございますからいつも。昨日の親先生は赤って言いよんなさったが、今日は白って言いよんなさると言う様な頂き方じゃなくて、今日白と言われたらそれを白と頂く心が大切です。
昨日は日田の綾部さんのところの、お母さんの35年の式年祭でした。でお家でなさると言うので私が参りまして、私と文男先生でお奉仕させてもらいました。でその後14日からですから、大分支部の共励会をさせてもらいましたが。秋永先生が話しておりましたがもうその、合楽の信心を純粋に頂くためには、白紙の状態にならなければいけないという意味の話をしてました。
何処どこの教会で、はぁもう元の先生は偉かった、あの先生はこう教えておられた。ああ教えられたというのが、本当に合楽にまっ帰依しというか傾倒しだして、合楽の信心の素晴らしさに、まぁ信心を続けておるという人達が、いかにその合楽の信心をと言うても、どうしてもそこにいわば前の信心がちらちら出て来て、いわゆるおかげの邪魔になるという話でした。やっぱりこの白紙になるという事は、どんなに例えば良い信心であっても、合楽におかげを頂いたら、まずは白紙になって合楽の信心を頂いて。
その後に良いものは良いものとして、また頂いて行くと言う様な行き方が大切なのです。昨日は霊祭を私仕える前には必ず、あのお風呂を頂くんですけれども、昨日は本当こう風邪具合が悪いものですから、どうしようかなぁとこう思うたけれども、しかし御霊様に対して相済まんと思うて、お風呂を沸かさせてお風呂を頂いて参りましたが。その御霊様に対して相済まん。やっぱしお風呂入って行こうと思うた時に、すぐお知らせを頂きましたが。あの柴という字を頂いたんです。
こう感じの此という字を書いて下が木という字になってますね。柴田さんの柴です。どういう事だと思うですか木は心と。だからこの木ということなんだ。この心とねこの心。今お前が思うたその心でを、霊祭を仕えるのだろうという事だと思うたんです。なるほど心が一つですべてをつくると言われておりますが。私どもが何にどういう場合であっても、何に立ち触る場合であっても。ね、こういう心の状態で、こんな事に取り組んで良いのであろうか。
こういう心の状態で、こう大我をしておるがこれで良いのだろうかと。実意もなからなければ丁寧さもない。いや心とは反対な事を口に出しておると言った様な、こういう心で良いのであろうかと。神様が受けて下さる心というのは、その心一つで全てを創ると言うほどしの、けいこを私どもはさせて頂いておるのでございますから。その心をいつも確かめ確かめして、行かなきゃならない事が分かりますですね。もう誰ん知らんから、体を極めてきたか誰か誰ん分からん。
神様と御霊様だけしか分かっちゃおらん。けれどもそれで御霊様に対してでも、失礼をかく事になる。礼を欠く事になるから。やはりまっ湯冷めするかも分からんけれども、神様にお願いをして入らせて頂こうと、そのお風呂へ入る。その心が信心だよという事なんです。だからもう心というものは、いつも検討に検討を加えて行きよりませんと、もう信心の心とは似ても似つかないような心の状態に、進展して行く発展して行くんです。それこそころころとおかげの頂けない方へ、心が転がって行くんです。
今度は35年の式年ですけれども、40年にはまぁ親戚全部呼んで、盛大におかげ頂きたいと思うけれども、今あちらの若大将が糖尿病の検査を受けに、病院に入っておられるんです。そんな事もあったりしてもうほんの内々で、まぁ親先生に来て頂いてからお祭り仕えて頂きたいという願いでした。それでもやっぱり文男先生が先に行って、色々準備をいたしておりましたから、まっ綾部さんのところの霊祭としては、まぁ性分でしたでしょうけれども、まぁ立派なお祭りでございましたが。
神様にお礼を申させて頂いておりましたら、御霊様のその今日、その昨日受けられる御霊様の信心というのであろうと、私は思ったんですけれども。あの何て言うですかね。あれ山本安恵か何かという女優がおりますね。あの人のまぁ十八番中の十八番と言われる、あの夕鶴というのがありましょう。鶴の物語なんです。それをあの、坂東玉三郎が演じておる、もう白い布を白いあの着物を着て、ちょうど鶴が羽ばたいておるような感じでこう、頂くんです。
そしてそれが、何か紫檀か何かの木で作った木彫の、それと同じ形の、あの鶴を頂きましたから、どんなことだろうかと思わせて頂いて、その夕鶴の物語を、皆さんもご承知でしょうけれども、助けられた一羽の鶴が、自分が人間の姿になって、その男の奥さんになって。そして主人が言うとおりの、自分の羽を一本一本縫いでは、それで反物を作って、その都に売れに行くと、もう大変な高い値段で売れる。それをそのまぁ主人になるのが、次々とそれを家内に言うわけです。
それでもう自分というものを、もうそれこそ空しゅうして、まぁ主人に尽くすという筋のお芝居なんです。そしてそれがあのうその形が昨日、あのう紫檀で作った鶴の様な感じで頂きましたから。今言う様に木は心と言うから、これは御霊様この御霊様は、もう本当に自分の身を粉にしてと言うか、自分の身を身も心もけずって、主人に仕えられたお方であろうという意味の事を、済んでから話させて頂いた事でしたけども。
後にもうそれはもう大変な働き手であって、まっ先生が言われる様な、そういうもう今日の丸亀の基を作ったと言われるほどしの方だったらしいですね、ご性格がだからそういう言うならば、あのそして非常に仏教の熱心な信心をなさったそうですが。そういう一つの余徳が、今日丸亀に残っておるんだと。綾部さん所はあの丸亀って言うんですよね。そして同時に私は、あの聞いてもらった事ですけれども、今あちらの若奥さんが、だからあの、たくさんなあの大きな、まあ7億ですかね年間売上が。
かの所の総仕切りをやってたです。だからあの綾部さんはもう、息子に譲っておるから、まぁ隠居の形でおられる訳ですけれども。今のあちらの若奥さんが、それこそ今主人の体は、そんな病院に入院しておるような状態、それをあれだけの沢山の人を使うて、あれだけの店を仕切って行くという事を、それこそ大変なことであろうけれども、それこそ先代のおばあさんのようにです、それこそ身を削り心を削りして、一生懸命励まねばならんとこじゃろう。
それもただ自分がで励むのじゃない、まぁいくらかの信心を頂いておられるから、信心の修行と思うて、それこそあの夕鶴のあの鶴のような気持ちで、日々の御用を頂きなさらなければいけないなと言うて、まぁ若奥さんに対する御理解でした。そしてあの綾部さんには、もうとにかく信心、あんたは三昧になり、いわゆる信心係になっておれば良いと言う様な御理解であったんですれども。
昨日のそのお祭りを神様が一口で言うなら、私の御心眼に竹をスキッとこう切ってね、その竹の一節に山茶花が、もうこんなに見事に入れられるだろうかと思うほどしに、一枝、斜めにサッと入れてあって山茶花がこう、上を向いて咲いておるようなのが茶花ですよね。私は思いました。必ずしも霊祭でもお祭りでも同じですけれども、結局心一つでと言われるのですから、それこそたくさんな花を集めてというような賑やかな、お祭りを心お込めてしたら、なおさら良いことでしょうけれども。
昨日のお祭りは一輪の山茶花を、それも一本の竹筒に差したようなお祭りであったと。もう何とも言えんいわゆる心一つで、いわば仕えられたようなものであったと。そういう素晴らしい心がもっと盛大に、たくさんな人をというか親戚中の者が集まって、そんならなおさら良いでしょうけれどもそういう都合で、まっ簡単にでしたけれども、その簡単にというその心根が、まっ私の頂くところの素晴らしい、一輪の山茶花でしょうけれども、その言うならば、実のあるお祭りであったという事になるですね。
信心はそれこそ心一つです。そういうまぁおかげを頂いて、昨日は帰らせて頂きましたがね。私共がね見栄とか形じゃない、いよいよあのう今日は前夜祭。明日は16日の報徳祭です。それぞれのもう猛々しい相に、それだけの思いを込めて、そりゃ一輪の山茶花でも良いでしょう。それこそ沢山のお花を集めて、花を贈るような心の状態でもいいでしょうけれども、その内容中身というものがです、有り難い勿体無いという事にならなければならないです。
昨日はあるちょっとした交通事故でもう、命を失うところを助けて頂いたと、いうお届けがありましたが。お礼の印に今度の御大祭に、お酒を一樽お送りしますからという電話が掛かって来たんですけれども。おかげを頂いた有り難いと思う心が、この薦の一樽になる訳です。だからもう前からもう3っつに来ておりますから、何かお金でして下さいとまぁ普通なら言うところかも知れませんけれども、これは神乍な事ですから、私はあぁそうですかと言うて受けさせて頂いたんですけれどもね。
有り難いと思う命を助けて頂いた時には、そういう言うならば、もう本当にどうかしなきゃおれないというものが生まれて来るんです。皆さんでもそうです。言うならばこの頃御本部で頂きましたですけども、年に一度の報徳祭なんです、報徳祭というのは。しかも三代金光様、四神様九州の大恩人と言われる、四神金光様、合楽の大恩人と言われる三代金光様の、お徳に報いる所のお祭りですから。
何をかして報いなければならないけれども、その報いる心が茶花一つへも、その思いがなからなければいけないという事でございます。今日はこれは私に下さったお知らせだろうかと思いますけれども、大根をこう引っこ抜いて泥がいっぱいついてるんですけども、もうまぁだ、あのこんくらいばかりの下がすぽんとしとる。これはもう一時放っておけば、まあ立派にこう大きく沢庵やらにでも漬けられるような、大きな大根に育つだろうというところを頂きました。
大根というのは、まぁ色々に頂きますけれども、まぁ大きい根という風に頂くべきでしょうね。大きい根ということは、大きな心という事でしょうね。だから大きな心に、なら心一つでおかげを受けるけれども、山茶花のような心でも良いのです。真心さえあれば。けれどもね、それがもうそれこそあのたくさん花を集めた、まっお花の花なんかのようにです。これは心が大きゅうならなければ出けません。たくさんの大きなおかげを頂いても、中が白々しいものであってはなりません。
やはり大きい根を頂かなければ、大きなご用も出けません。ですけれども私が頂いたのは、まぁスポッとしたまぁこの、まぁ一尺ぐらいな長さの大根で、このまま、まぁいっとき植えとき、まだ根がずっと大きくなるだろうと、こう言う様な格好の大根を頂かせて頂いて、これいよいよ持って、土の信心ということを思いました。これはこれはもっともっと土の信心を極めて行かなければならない。そしてその土の恩恵により、そしてその大根が十分に大きくなる。
私共の心が信心になって限りなく、それこそ十分に大きくなって行く、大きな豊かな心を頂きたい。今日は心一つですべてを創ると言われる、そのことを皆さん、もう一遍その事を白紙になって。なるほど心が大きゅうならなければいけないな。いや例えば些細なことであっても、その中には思いがいよいよ込み上げられておかなければならないな。いよいよ大祭に望む、霊祭に望む孝行する。
何々をこういうご用をさせてもらうという、その中身が、その心だと神様が仰せられる様ないわゆるこの心である。柴という字。そういう心を確かめながら、今度の言うならば、今晩から明日にかけての、お祭りに望みたいと私は思うております。どうぞ白紙になってね、御理解を今日の御理解を頂いてくださると、まっいつも申しておりますような事を申しましたけれども、また新たな物として頂けれると思うんですよね。
どうぞ。